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パニックとショックの現代用語集
 

政治に関するショック

キャンペーンであることもしばしばだ。

武蔵野ショック

本誌1984年版収録。以下、

昭和58(1983)年4月の統一地方選を直前にして、東京・武蔵野市で台頭した市職員の高額退職金問題。当時の革新市長に対抗して出馬した保守系候補の土屋正忠が、いわゆる“4000万円”退職金の実態を暴露、その引下げを同氏は選挙戦の最大のスローガンにしてたたかい、前市長を僅差で破って当運した。武蔵野市は前々市長時代から5期にわたって革新市政が続いており、市民参加や老人ケアなどの先駆的行政の実績で、全国的にも革新市政の象徴的存在としてその名を知られていたが、“4000万円”退職金の攻勢一本で敗れたといわれる。武蔵野ショックとは、こうした敗戦が革新陣営に対して与えたショックをいうが、それのみではない。土屋新市長は当選後直ちに退職金引下げの公約実現に着手したが、市職労との対立の模様や、武蔵野市のみならず全国の他の自治体の高額退職金の実態がマスコミで大々的に報じられたため、ショックは全国的なものとなり、該当する自治体での見直しが迫られることになった。

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ミッテラン・ショック  Mittrrand shock

本誌1982年版収録。以下、

1981年5月の大統領選挙でフランスに23ぶりに左翼政権が誕生した。フランソワ・ミッテラン−レジスタンスの闘士で、ドゴール将軍からも高く功績を買われていたが、社会党の党首(第一書記)であることに変わりはない(→核実験)。レーガン大統領を選んで新保守主義に向かって歩を踏み出したばかりのアメリカが受けた衝撃は、ことのほか大きかった。そして、6月、ミッテランは、モーロワ内閣に4人の共産党閣僚を入れることを決定した。47年のラマディエ内閣以来、34年ぷりのことである。150の銀行や保険会社、それに11の大企業グループ(プジョー、シトロエン、ローヌ・プーランなど)を全面的に国有化する方針もほぼ決まり、経営者はクビ、株券も紙クズ同様…という状況が、にわかに現実味を増してきた。そのような中で、来年の第8回サミットはフランスで開かれる。東西関係と南北問題の悪化が懸念される中で、果たして「西側先進7カ国」の歩調をそろえることができるのだろうか。ミッテランのフランスが投げかけた波紋は、思ったより大きく、かつ深刻なのである。

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二階堂ショック

本誌1988年版収録。以下、

昭和62(1987)年5月14日の田中派総会での二階堂進会長の総裁選挙立候補表明による自民党内の乱気流現象。「ポスト中曾根」をめぐる、田中派内の二階堂と竹下の対立であったが、次期総裁をめぐる争いが、竹下、安倍、宮沢の3人のニューリーダーのあいだで低調であったことから、政局全体に影響を与えることになった。この二階堂ショックは、竹下に次期総裁選挙出馬へ向けての具体的行動を促した。62年7月4日の竹下派結成は、派閥の領袖ではなかった唯一の総裁候補から竹下を脱却させたほか、安倍、宮沢の2人にも総裁選挙へ向けての全国遊説などの開始を決意させることになった。

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岩手ショック

本誌1988年版収録。以下、

参院岩手選挙区補欠選挙(1987年3月8日)で、保守王国と言われながら、自民党・岩動麗候補(19万7863票)が、社会党・小田仁一候補(42万1432票)に敗れたショック。61年同日選挙で自民党大量議席増を背景に、公約をしなかった売上税を衆議院に上程した中曽根首相の政治手法に与・野党の圧倒的多数から売上税反対の声が上った中での 、4月の統一地方選挙の前哨戦と言われた国政選挙。大勝した社会党側は、「売上税一揆」といい、自民党側は「売上税はオバケだ」と分析している。岩手ショックに続いて、4月統一地方選挙でも、売上税問題は自民党地方議席後退の要因となった。62年ダブル・ショックとも言える。

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エリツィン・ショック  Yeltsin shock

本誌1990年版収録。以下、

かつてはゴルバチョフのよき盟友の一人であったポリス・エリツィン(Boris Yeltsin)も、いまではソ連の共産党による一党支配を脅かす一種の野党勢力のリーダー格にのしあがっており、折あるごとに「ペレストロイカの不徹底と大失敗」を公言している。そのため、左のリガチョフとともに、右からゴルバチョフ体制をハサミ打ちにするようなかっこうになっており、“ソ連の危機”に一層の拍車をかけている。

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サダト・ショック

本誌1979年版収録。以下、

1977年11月19日からの3日間、エジプトのサダト大統領が、中東和平交渉の行詰り打開のため、エルサレムを訪れた行動の波紋。アメリカのカーター政権が、77年度の最重要外交案件として、ジュネーブ中東和平会議再開を目ざした斡旋が、6月イスラエルで成立した強硬派ペギン内閣の抵抗で、極度に行詰ったため、サダト大統領は前記期間、アラブの元首として初めてのイスラエル訪問を行い、不信の除去と交渉による平和解決を訴えた。アラブのタブーを破る行動は、平和への偉大な決断と讃えられ、両国ならびに世界から広く支持された。しかし、穏健派アラブ諸国の支持と対照的に、急進派5力国の首脳は結束して反対を表明する状態で、ショックはアラブ陣営の溝を深めている。イスラエルとの間では、12月ぺギン首相がエジプトを訪れてのイスマイリア会談で、外相級代表による政治委員会と軍事委員会を設ける手続きが合意され、交渉への期待が高まった。しかし、1月中旬エルサレムで開かれた政治委員会で、ヨルダン川西岸占領継続とパレスチナ国家否認を固執するイスラエルの態度を不満として、エジプトが代表引揚げを行って、委員会は中断され、交渉は行詰った。両国首脳のアメリカ訪問とアメリカの幹旋で、78年7月ジュネーブでアメリカを入れた三国会議が開かれたがサダト・ショックの効果は、悲観論に転じつつある。エジプト・サダト大統領、イスラエル・ペギン首相の平和努力に対して、スウェーデン王立科学アカデミーは78年10月に78年度ノーベル平和賞を授与すると発表した。

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青島ショック

本誌1996年版〔社会風俗用語〕収録。以下、

この場合、東京都知事選挙の結果にショックを受けたのは、自民党なのか新進党なのか?。大前研一ほか小粒といわれながらも、個性的な無党派がそろった選挙戦で、栄冠を手にしたのは家で寝ていた青島幸男。同時に大阪府では横山ノックが当選し、雑誌には「お笑い大革命」なる派手な見出しも踊ったが、蓋を開けてみれば都市博に不勉強な青島は議会で「青島いじめ」にあい、公約は二転三転。都市博こそなんとか中止にこぎつけたものの信組問題ではとうとう折れる。それにも懲りずに参院選、勘違いタレントの立候補。しかし、その終わった人々の顔ぶれをみると、政治家っていい商売じゃないとわかる。

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デンマーク・ショック  D' Shock

本誌1999年版収録。以下、

マーストリヒト条約は1991年の首脳会議での合意、92年の政府間の調印と順調に進んだが、批准の段階で大きく挫折した。そのはじまりがデンマーク国民投票の敗北で「デンマーク・ショック」略して「D・ショック」ともよばれた。デンマークでは、批准に当たり国民投票での支持が必要で、投票は92年6月2日に行われたが、反対が165万2999票で50.7%、賛成が160万6730票で49.3%と、反対票が賛成票を4万6269票とわずかながら上回った。これが加盟国最初の批准作業であったためEC委員会に大きなショックを与えた。その後9月20日にフランスで行われた国民投票では批准に賛成は得られたものの、反対票が48.95%に及んだためマーストリヒト条約の見直し論が起きた。マーストリヒト条約はデンマークに特例の免責条項を付与して、93年5月18日に再投票を行った結果、批准が認められた。

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クレッソン・ショック(効果)

本誌1992年版収録。以下、

1991年5月、ミッテラン政権下のフランスでロカール内閣に代わりクレッソン内閣が出現した。フランスで最初の女性首相の誕生であった。クレッソン女史はすでにロカール内閣の欧州問題担当相であった当時から「日本は敵」論を主張していたが、首相就任直後にも同様の発言を公然と展開した。フランスさらに西欧全体にも日本に対してはその経済・技術力をめぐり保護主義的対応と協調的対応との2つの流れがあり、クレッソン首相の場合は保護主義的、「敵対的」な流れを代表するものである。クレッソン発言は日仏間に大きな衝撃と心理的緊張をもたらした。

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