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パニックとショックの現代用語集
 

経済に関するショック

経済上のショックというものは、乗り越えられるものなのか。少なくともこれまでは、日本の国が亡くなってしまうほどの事態はなかったのだ。

ショック・セオリー  shock theory

本誌1976年版収録。以下、

訳せば「衝撃の理論」である。消費心理学の世界的権威であるミシガン大学のカドーナ博士が唱えた消費行動の一学説である。この意味は「インフレや不況といった人たちの消費行動は変化する」というものである。「所得の増大がストレートに消費の増大をもたらす」というケインズ学説に疑問を投げかけているわけだ。

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ガルフ・パニック

本誌1985年版収録。以下、

イラン・イラク戦争が、ガルフ(アラビア・ペルシャ湾)にまで飛び火して、ホルムズ海峡が封鎖されるなど、世界の石油需給が危機に陥り、パニック状態になるおそれがあるのをいう。実際には、アメリカは中東産油国からの石油輸入は全石油消費量の3%と低く、ヨーロッパも20%以下。わが国だけが全消費量の3分の2をこの地域に依存している状態である。したがってガルフ・パニックが起こるとすれば、日本だろうとの見方が、海外諸国において強い。

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逆オイルショック

本誌1984年版収録。以下、

原油価格が下がることによって、消費国経済にプラスの面があると同時に、国際信用不安が拡がるなど、マイナス面もかなりあることを指摘する言葉。内容的には、<1>産油国向けプラント輸出の減退、<2>代替エネルギー開発プロジェクト挫折の打撃、<3>非OPEC産油国の金融不安、<4>オイルマネー縮小による株式下落、資金引上げによる信用不安などがあげられる。

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フレンチ・ショック

本誌1984年版収録。以下、

フランス政府が日本や韓国などに対して、フランス向け輸出関係書類、たとえば原産地証明書などをフランス語で表示するよう通達したための各国の困惑をいう。本来、貿易関係書類は英語表示が慣習となっているので、中小貿易企業は手をやき対仏輸出急減も心配される。貿易赤字に悩むフランスが外国品を締出すための一種の非関税障壁ではないかと日本の業者は非難している。これに対してフランス政府は、本国輸入業者と消費者への便宜を計るためであって、決して保護貿易政策ではないと説明している。

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イラン・オイル・ショック

本誌1981年版収録。以下、

1978年末に起ったイランの政情不安による石油輸出停止が導火線となって、79年初にはパーレビ皇帝に代る新政権が原油生産の抑制政策を採用し、他のアラブ諸国もこれに追従する空気が強まり、世界的な石油供給不足のおそれが生じたことをいう。その後、イラン国際石油会社の共同組織IOSを解体し、イラン国営石油会社が100%自主販売の体制を確立して、メジャーの供給力低下の先頭を切った。また1979年秋にはアメリカ大使館人質事件を起すなど一連の供給不安の原因となっている。

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オイル・ショック

本誌1987年版収録。以下、

昭和48(1973)年10月、第4次中東戦争が始まり、石油の生産制限、輸出制限に4倍の値上げというのがオイル・ショックだ。世界の石油事情は一変し、石油と電力の供給制限がとられ、省エネが叫ばれる世の中になった。高度成長は一挙に低成長・安定成長となった。街のネオンは消え、テレビも放送時間を短縮、狂乱物価は燃えあがった。物不足から庶民は買いだめに走り、トイレット・ペーパー、洗剤が店先から消えパニック状態になったのは象徴的できごとだった。

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貧者からの贈り物  poor man's gift

本誌1987年版収録。以下、

1984年から86年上半期にかけて、原油価格は1バーレル27ドルから12ドル程度に低落し、一次産品価格は平均3割下落した。こうした原燃料価格の低下は、逆オイル・ショックとも呼ばれる。原油価格の値下がりだけで、約1000憶ドルが産油国から消費国に移転した、との試算もある。貧者からの贈物とは、ロンドン・エコノミスト誌の評語だが、この価格の低下は、83年からの景気回復過程の途次、失速した先進国経済を下支えする役割を果たした。ここ数年の物価安定状態は、政府支出の引き締めとともに、原燃料価格の低下によるところが大きい。しかし、途上国にとってみれば、輸出収入の大幅な引下げは債務返済を困難にし、先進国からの輸入を制約する。体制変革の問題も現れかねない。先進国も「貧者からの贈物」を喜んでばかりいられないのである。

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パニック・トレンド(不気味な風潮)  panic trend

本誌1988年版収録。以下、

ニューヨーク証券取引所を史上空前の株価暴落が立て続けに襲うなど、このところ1929年10月24日の「暗黒の木曜日」の再来がしきりにささやかれており、『1990年の恐慌』や『マネー・パニック89』などといった“パニックもの”がペスト・セラーの上位を占めている。現実に87年10月19目に508ドルの大暴落を起こし「暗黒の月曜日」といわれ、その影響は世界中の株式市場に影響をおよぼした。

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ブラック・マンデー  black monday

本誌1991年版より。以下、

1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場の暴落に端を発した株価波乱は、あっという間に世界の株式市場をかけ回った。この日をブラック・マンデー(魔の月曜日)とよんでおり、ニューヨークのダウ工業株30種平均は508ドル、率にして22.6%と過去最大の暴落、東京市場も日経平均株価225が3836円48銭、14.9%と53年3月5日のスターリン暴落の10.0%を大きく上回る記録的な暴落となった。プログラム売買が暴落に拍車をかけたともいわれ、アメリカで再発回避のために官民あげての調査・分析を行い取引停止を始めとする数々の措置をこうじると同時に、各国市場も協力して国際化、多様化する証券市場の改革に力を入れている。

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タテホ・ショック

本誌1988年版収録。以下、

鉄鋼向け炉材用の電融マグネシアのトップメーカー、タテホ化学工業はかねて財テク企業として有名だったが、昭和62(1987)年6月以降の債券相場の急落で債券投資に失敗、200億円に上る損害を出したことが9月早々明るみに出て、内外の株式、債券相場が一斉に急落を演じた。これが“タテホ・ショック”である。同社は海外ではあまり知られていないが、ピーク時には同社の総資産の7〜8倍にも当たる2000億円以上を債券投資に振り向けていたといわれ、損失額の大きさ、一気に債務超過に落ち込んだことなどから、財テク自粛ムードによって日本企業の巨額の投資資金が市場がら引揚げるのではないが、第2、第3のタテホが出るのではないかといった不安心理が広がった。企業財テクは従来の為替や金利変動のリスクを最小限に押えようという運用姿勢から、ここ1、2年は積極的な余資運用で金融収益をかせごうという攻撃的運用に変わってきたところが多く、財テクの行き過ぎに対する批判や懸念も強くなっていた。また今回の事件を契機に金融機関による財テク資金融資や証券会社の営業姿勢なども問題視され、タテホの株価が事前に大幅に値下がりしたことから、インサイダー取引の疑いも出るなど波紋が広がりそうである。

→バブル経済

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パニック防止協定

本誌1981年版収録。以下、

多数の消費者が急激な値上げや品不足などの不安にかられて一時に異常な行動をとることをパニックという。最近では昭和48(1973)年の“オイル・ショック” 直後に洗剤やトイレット・ペーパーの大規模な買いだめが行われた例がある。このような事態の再発を防ぐ目的で、55年3月、神戸市と灘神戸生協が「緊急時の生活物資確保のための協定」を結んだ。生活物資26品目を指定し市内でモノ不足の兆しが見えたとき、不足商品の集中販売をしてパニックの芽を摘み取ろうというもの。自治体と生協が手を結んでの「パニック防止協定」としてはこれが初めて。

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システム・ショック  system shock

本誌1986年版収録。以下、

株式売買がコンピュータを使った即時売買になり、いままでの立会場での売買のような“情報交換”ができなくなったことからくる市場取引の中で起こる不安心理のこと。昭和60(1985)年4月16日に株価ダウが史上最大の下げを演じたときにいわれ出したのが、この新システム原因説である。

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イラク・ショック

本誌1991年版収録。以下、

1990年8月、イラクは隣国のクウェートに軍事侵攻し併合を宣言した。もともとオスマン・トルコによる領有(16世紀中葉から第1次世界大戦まで)時に、クウェートは、イラクのバスラ州の一部だったので、1961年の独立時にもイラクが領有権を主張し英軍の派遣により独立がようやく保障された経緯がある。

今回イラクは、石油価格低落の責任がクウェートのOPEC協定を無視した石油生産にあると非難し、ルメイラ油田の「盗掘」(この油田はイラク、クウェート双方にまたがっているので、一方の採掘は共通の油脈の“盗掘”たらざるを得ない)の賠償20億ドルを要求して交渉中に、この挙に出たのだった。国連の安保理事会はただちに合併の無効を宣言し、経済制裁を決めてイラクが抑留する外国人の出国を要求した。また、この制裁措置の実効を確保するため限定的な武力行使を認め、これに基づいて21カ国32万人にのぼる多国籍軍が編成され、サウジアラビアなどペルシャ湾岸に派兵が行われた。日本も40億ドルの資金援助を表明し、難民向け医療チーム、アジア系難民救援の飛行機などを派遣した。

世界石油生産の約半分を占める中東地域の軍事緊張で、国際市場での原油価格はバーレル当り40ドル台(11月渡しスポット引取)に急騰した。石油価格の上昇は、先進国、発展途上国を問わず、石油輸入国の台所を苦しくし、世界景気にマイナスの影響を及ぼす。だが、より長期的にみれば、イラク・ショックは2つの意味をもっている。1つは、東西冷戦体制の解体は、米ソ両超大国の紛争抑止力の衰退を物語っているが、イラクの拡張主義は第3世界で今後ますます頻発するだろう南南紛争の時代を告知している、ということだ。

第2は、今回の紛争による多国籍軍の出動はアラブ民族主義を刺激し、クウェートのみならず、アラブ王制国家の正統性を失わせ、湾岸地域の政治的変化を促進することになるだろう。なぜならば欧米は中東油田地帯を一方ではイスラエル、他方ではサウジアラビア、クウェートなど王制国家を通じて、両者を共にあくまで武装させ統制してきたわけだが、いま後者が危機状況に陥ったわけである。この二つの意味で、イラク・ショックは、欧米が第3世界で作り上げてきた支配体制の“終わりの始まり”だといえよう。

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ドル・ショック  dollar shock

1971年8月15日のニクソン宣言により起こった、翌日の株式大暴落。28日,それまでの1ドル=360円の固定相場制から変動相場制へ移行した。

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ゴーン・ショック

本誌2001年版収録。以下、

日産自動車カルロス・ゴーン社長のリストラ計画で閉鎖と名指しされた工場の地元が受けた衝撃。1999(平成11)年10月発表のリバイバルプランによると約1100社の部品調達先のうち、競争力のない企業を切って、数を2002年度までに半減させ、購買コストも2割削減する方針で「ゴーン革命」といわれた。

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コロル・ショック  Collor Shock

本誌1991年版収録。以下、

1990年3月15日に発足したコロル新大統領の国家再建党(中道右派)政権が発足の翌日に打ち出したドラスティックなインフレ収束政策。

「新ブラジル」計画ともよばれる。5万クルゼイロ(預金の種類によって600〜1000ドルに相当する額)を超える銀行預金を1991年9月まで封鎖して、1989年には1476%にも達した超インフレを克服しようというもの。計画には、<1>私企業への補助金の停止、<2>30日間の物価凍結、<3>国営企業21社の解体、<4>「クルザード」から「クルゼイロ」へのデノミなども含まれた。これにより、インフレは一応終息をみたが、景気の後退も著しく、今後の経済発展に寄与できるかどうかが注目される。

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