黒英語のblack がイメージさせるものは、フォーマル(正装)、正義、不吉、死、悪、有罪、反対、黒人、ファシスト、修道士…。フランス語の noir には、スタンダールの小説『赤と黒』にあるように、キリスト教の聖職者の意味があったが、現在はその傾向は小さい。聖職者が必ずしも黒い副ばかり着るわけではなくなっているから。ロシア語の黒(チョールヌィ)には、雑用の〜、下働きの〜という意味もある。「黒」の政治的意味としてはアナーキスト(黒ヘル集団)、ニヒリスト。 ◆ブラック・パワー本誌1972年版収録。以下、
Black Power 黒人社会の支配権を黒人の手に取り戻そうとするスローガン。1966年夏から学生非暴力調整委員会のカーマイケルが唱えたもの。公民権法の通過とともに、黒人解放運動は一時分裂したが、白人の恩恵によって解放されるのではなく、白人と対等の立場に立つために、黒人自らの権力機構を樹立すべきだとする、ブラック・パワーの戦闘的スローガンが共感を得、ベトナム戦争反対のスローガンと結びついて、アメリカの黒人連動の新しい指導スローガンとして広まりつつある。 67年7月、ニュー・ア−クでブラック・パワーの全国大会が開かれ、諸種の黒人組織から1000名あまりの代表が参加して黒人政党の組織、ベトナム反戦などについて討議した。しかしブラック・パワーという概念の内容については、参加者の理解は決して一様ではない。 ◆黒豹党(ブラック・パンサー)〈1972〉本誌1972年版収録。以下、
Black Panther アメリカのアラバマ州で1965年黒人の選挙名簿登録運動組織として作られた「ロウンデス郡自由組織」のこと。そのシンボルの「黒豹」から通称を「黒豹党」と呼ばれるようになった。現在は黒人解放運動の政治結社として南部から北部の都市の黒人居住地区を拠点として組織化に努め、ニューヨークやデトロイトなどに支部を作り、戦闘的な活動を展開している ◆ブラック・パンサー〈1989〉本誌1989年版収録。以下、
アメリカ黒人の過激派組織。1966年10月、カリフォルニア州オークランドで創設され、黒人に武装自衛を呼びかけ、警察側と派手な銃弾戦を演じた。最盛期、全米に40以上の支部をおき、党員2000人以上といわれた。創設者のヒュアイ・ニュートンや、大物指導者のエルドリッジ・クリーパーが逮捕されるなどして、70年代に入り壊滅状態となり、その後、穏健路線の再建組織ができている。 ◆ブラック・ゲットー本誌1972年版収録。以下、
Black Ghetto ゲットーとは元来イタリアにおけるユダヤ人居住強制区の意味であるが、現在ではスラムの同義語として使用されている。ブラック・ゲットーとは黒人スラム街のことであり、有名なのは、ニューヨークのハーレム、ロスアンゼルスのワッツなどであるが、各都市に存在している。ブラック・ゲットーは、家屋のほとんどが老朽化し、失業者と生活保護者が大部分を占めているといわれる。国内の黒人差別の状況の中で、たとえ黒人の中産階級以上のものでもこの居住区の中から出ることが困難なのが実情。黒人暴動は人種差別を原因として、ハーレムの黒人少年が1964年7月、白人警官に射殺されたことから黒人の不満が爆発したもの。以後“長く暑い夏”の年中行事として、ワッツなどのブラック・ゲットーを舞台として毎夏起こっている。 ◆ブラック・シオニズム本誌1980年版収録。以下、
Black Zionism L.ジェンキンズの同名の著書で使われたことから、ひろく知られるようになった用語で、ユダヤ人のシオニズムをもじった言葉。16〜19世紀の奴隷貿易によってアフリカ大陸から輸入されたアメリカ黒人の子孫たちのあいだには、アフリカを“シオンの丘”にたとえ、アフリカヘ回帰しようとする運動がしばしば形成された。1920年代に高まったガーヴィーの“アフリカへ帰れ”運動はその代表的なものである。また黒人の同一性の原点をアフリカに求める運動もその変形と見ることができる。 ◆黒いダイヤ 1石炭の異称。世界の産業革命をささえ、また日本においても唯一といってよい国産エネルギー資源として明治〜大正〜昭和期の近代化・工業化をささえた。 ◆黒いダイヤ 2本誌2001年版収録。以下、
2000年3月に発表された国連安保理報告によると、テロ活動に対する国連のダイヤ取引禁止の制裁に対抗して、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)はベルギーのアントワープでダイヤの密売を行い、反政府ゲリラ活動のための資金を調達しており黒いダイヤとよばれている。安保理報告によると、ベルギー政府や司法当局の懸命の取り締まりにもかかわらず、アントワープでは4000〜5000の業者がダイヤの闇取引を行っており、UNITAは楽楽と取引をしているといわれる。 アントワープは古くからユダヤ人の避難先となり、1930年代にはナチの迫害を逃れたユダヤ人のダイヤ職人が集まって、世界有数のダイヤ市場となっている。 ◆三黒景気本誌1958年版収録。以下、 証券業界の用語で、輸出の好転による鉄鋼、造船、車両業界の好況をいう。昭和30(1955)年の三白景気(砂糖、セメント、硫安)に対照させて使われ始めた言葉である。 ◆黒い羽根本誌1961年版収録。以下、
炭鉱不況で整理される労務者を救いたいと、福岡県の婦人有志が発起した助け合い運動。問題が炭労、母親大会を通じて普及するにつれて全国化した。赤い羽根にかえて黒い羽根を使った。 赤い羽根、緑の羽根、黄色い羽根 2、黄色い羽根 1、青い羽根、 ◆黒か白か本誌1961年版収録。以下、
犯罪の事実ありや、なしや、ということ。また白は犯罪の容疑がはれること。1948(昭和23)年1月26日に起こった「帝銀事件」の容疑者平沢貞通をめぐって有名になったことば。 ◆黒線本誌1959年版収録。以下、
青線、赤線、さらに白線と、売春様式に関する用語が登場したが、これはだいたいつつもたせが行われる暴力売春街のことをいい、暴力的盛り場などをもいう。 ◆黒ナンバー本誌1959年版収録。以下、
ドライブ・クラブの貸自動車につけられているナンバー。自動草の前後につけられているナンバーの色はその種類によって区別されており、白は自家用車、ダイダイ色はタクシーなどの営業用である。 ◆黒い(暗黒の)9月〈1973〉本誌1973年版収録。以下、
パレスチナ・アラブ人のゲリラ組織。1971年11月28日のヨルダン・タル首相暗殺事件で知られたもの。70年9月のヨルダン危機でのパレスチナ・ゲリラの大虐殺にちなみこの名称がつけられたといわれるが、その綱領は不明で組織人員500名。72年9月ミュンヘンで開催されていたオリンピックのイスラエル選手団宿舎をゲリラの8人が襲撃。イスラエル人の人質を取り空港から脱出しようとしたが、空港を取巻いた西ドイツ軍隊と激戦の結果、ゲリラ・人質とも全員死亡した。この行動は「ビラム・イクリト作戦」と名付けられているが、これはレバノン国境近くのキリスト教住民の住んでいた2つの村の名で、48年の中東戦争以来イスラエルに占領されているもの。 ◆アブ・ニダル派(黒い9月)〈1989〉本誌1989年版収録。以下、
ファタハのイラク駐在代表だったアブ・ニダル(本名サプリ・アル・バナ)がつくった過激派の少数部隊。イラクの保護の下に、主としてシリア、ヨルダンなど他のアラブ諸国への攻撃を行う。1976年秋、ローマ、パキスタンのシリア大使館を襲撃、サダトのイスラエル訪問後はPLO穏健派へのテロも開始し、PLOロンドン代表、エジプトの政府機関紙編集長の暗殺などを行った。72年9月のミュンヘン・オリンピックのイスラエル選手村襲撃事件も有名。イタリアの「赤い旅団」などとの連携もいわれる。84年3月、イスラエル南部のアシュドッドでバスを爆破、2人を死傷させる事件も起こした。 ◆ブラック・ジャーナリズム本誌1980年版収録。以下、
black journalism 裏街道の情報界。一般に社会的に公認されない情報の世界をいう。ブラック・マーケット(やみ市)に似て、とくに表街道のジャーナリズムが適当に機能しないとき氾濫する。社会批判の一面も有するが、ただ正当な経営費に裏づけされていないので、とかく政財界の黒幕に操られたり、たかり、ゆすりの材料になったりする。近年、総会屋が企業の賛助金のカットに対して、資金源をブラッグジャーナル発行に求める傾向がみられる。しかし、混乱の時代には、未確認情報や当事者情報の集成でもあるので、分析の仕方によっては事件の楽屋裏を知るに役立つ材料となる。 ◆黒ヘル集団〈1973〉本誌1973年版収録。以下、
70年安保以後に生まれたノンセクトの少数過激集団。デモでは黒いヘルメットを着用しているが、潜伏して非公然活動に移ることが多い。トロツキズムを基調とするが、綱領、機関紙、規約も思想系譜も明白でない。最大の集会は、1971年6・15デモだが、同じ黒へルでも280組織2200人に達し、平均8人という少数過激集団。テルアビブ空港乱射事件の日本人学生3人も、この黒ヘル集団出身で黒ヘル問題は治安対策上の最大課題となった。 ◆黒ヘル集団〈1980〉本誌1980年版収録。以下、
昭和44(1969)年、45年の大学闘争、70年安保闘争などの中で現われでた黒ヘルメットのグルーブ。既成のセクトに属さず、単独で過激な行動をし、黒がアナキストの色であるところから、アナキスト・グループとも警察当局はいうが、思想としてのアナキズムを信奉するグループではなく、組織を否定し、直接行動を建前にするアナーキーなグループといった方がいい。46年、赤軍、RG(共産同の一派)とともに、黒へルグループが爆弾作戦を競い合ったこともある。警察庁調べては53年6月現在、全国に約320グループ、約4000人がいるといい、1グループ平均10人前後という少数過激集団となっている。 ◆黒いノリ本誌1991年版収録。以下、
ニューヨークやロサンゼルスの下町に暮らす黒人のファッションや音楽に惹かれて、外見上も自らを黒人化しようとする少年、少女が増えている。スタイルがいい、ダンスがうまいといった理由から黒人に憧れた彼らは、自ら肌を黒く焼き、シューズメーカー、ナイキ社等のロゴ入りTシャツ、短パン、スニーカーを身につけ、さらに金メッキのアクセサリーなどで自らを過剰に飾りたてていく。基本の色調は黒に金や銀、これに蛍光色などを加える場合も多い。また、言葉づかいにも黒人のスラングを交えるなど、まさに全体として黒いノリを会得していくのである。こうしたファッションの教科書となるのは、スパイク・リー監督の人種問題をテーマにした映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』や、ボビー・ブラウン、M・C・ハマー、パブリック・エナミーといった黒人ミュージシャンのビデオ・クリップである。このような黒人に憧れる少年、少女の主な活動の場は何といってもディスコだろう。スタジオ・ワークによってつくられるビート重視のリミックス・サウンド、ハウス・ミュージックに合わせてパワフルに踊るのがカッコイイのである。それを証明するかのように、深夜テレビのダンス・コンテスト番組には、素人参加者が大挙押し寄せ、プロ顔負けのステップを披露している。 ◆黒い三角地帯本誌1994年版収録。以下、
Black Triangle 社会主義国には環境問題は存在しないなどといわれたが、実際には西側諸国よりもはるかに深刻な環境問題が存在したことが明るみに出ている。それは無理な高度成長政策のためであり、また環境汚染に対する市民の抗議の声が抑圧されたためであった。たとえば、「黒い三角地帯」と呼ばれる東ドイツ、チェコスロバキア、ポーランドの国境隣接地域は、欧州で最も煙害のひどい地域となっている。酸性雨のためにすでに森林の三分の一が死滅した。ポーランドの高地シロンスク地方では肺がんの発生率が他の地方の数倍に達している。環境汚染に対する市民の抗議運動は八九年の変動の一つの背景をなした。たとえば、ハンガリーでは、ドナウ・サークルと呼ばれる市民グループがドナウ河中流に巨大なダムを建設するというハンガリー=チェコスロバキア=オーストリア共同事業をストップさせた。ブルガリアでは「エコグラスノスチ」という市民グループが反政府運動の一つの中心となった。東欧諸国にはチェルノブイリ型のソ連製原発が多数設けられているが、市民の抗議運動が高まって幾つかが停止もしくは閉鎖されている。91年7月に停止が決定したブルガリアのコズロドイ発電所の2基の原子炉はその一例である。わが国と欧米諸国は現在、公害問題克服のためのノウハウや資本を東欧諸国に提供する案を検討中。 |
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