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オリンピックの歴史に燦然と輝くキーパーソンからキーワード
 

カタリナ・ビット  Katarina Witt

1965年12月3日生まれ。ドイツ出身のフィギュアスケート選手。

カルメン対決

1988年カルガリー・オリンピックの女子フィギュアスケートは、前大会のゴールドメダリストであるカタリナ・ビットと、86年の世界選手権で優勝したアメリカのデビー・トーマスの2人に大きな注目が集まった。両者ともにフリープログラムで「カルメン」を楽曲として選び、東西対決の様相も呈した緊張感あふれるなかで2人は演技をすることになる。軍配はビットに上がり、このときの彼女の情熱的な「カルメン」は今なお歴史的な名演技として語り継がれている。

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ユッタ・ミュラー

カタリナ・ビットは1965年に旧東ドイツのスタッケンに生まれた。5歳の時にスポーツクラブに入ってフィギュアスケートを開始する。その後、カール・マルクス・シュタット青少年スポーツ学校のフィギュアスケートか入る。そこで、ヤン・ホフマン、アネット・ペッチといった数多くのオリンピック・メダリストを育てた名コーチ、ユッタ・ミュラー女史の指導を受けるようになり、才能が開花する。1983年にヨーロッパ選手権で優勝しトップ選手となる。

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マイケル・ジャクソン

1958年生まれ。幼少時からファミリー・グループ、兄弟らと共にジャクソン5として芸能活動を始める。1982年発表のアルバム「スリラー」は全世界で5000万枚以上のセールスを記録し、ギネスブックにも掲載された。その後もヒット作を出し続ける一方、整形疑惑や少年愛のうわさ、巨大施設遊園地「ネバーランド」の建設など、音楽活動以外の面でも話題を提供し続けた。

カタリナ・ビットは冬季オリンピック・カルガリー大会において、フリープログラムで芸術性の高い「カルメン」を演じる一方、エキシビジョンではマイケル・ジャクソンの「バッド」に合わせて氷上を舞った。当時共産主義圏に属していた東ドイツの選手が、いわば資本主義世界の象徴ともいえるアメリカのポップミュージックを使ったことに、人々は大いに驚かされた。

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アマ復帰

1994年のリレハンメル・オリンピックではプロになった選手のアマチュア復帰による出場が認められたため、28歳のビットはアマに戻りオリンピックに挑戦した。時代はジャンプの時代で、何種類もの3回転ジャンプを駆使する若手に挑むことは無謀ともいえた。あえて彼女が挑戦した理由には、技術偏重のフィギュアスケートに芸術性を再び取り戻したいという思いがあったといわれる。結果は7位とふるわなかったが、彼女の演技は多くの人々を惹きつけた。

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花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

アメリカのフォークシンガー、ピート・シガー(アメリカ)が1955年に発表した曲の題名。ピーター・ポール&マリーやキングストントリオほか、多くのミュージシャンに歌われたこの曲は、反戦歌として知られる。ヨーロッパでは、往年の名女優、マレーネ・ディートリッヒがドイツ語で歌って有名になった。

リレハンメル大会のフリープログラム用の曲として、カタリナ・ビットはこの曲を選んだ。旧ソ連各国が独立して参加した初めてのオリンピックという舞台で、彼女は演技を通し、ボスニア紛争に対して反戦のメッセージを送ったのである。また、同時に技術偏重に流れる女子フィギュアスケート界に対して、芸術性や女性性といった「美はどこへ行ったのか」と問いかける意味も込められていたといわれる。

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オスタルジー

旧東ドイツへの懐古(再評価)といった意味で、「オスト(ドイツ語で東の意)」と「ノスタルジー」を合わせた合成語。東西ドイツ統一から10年以上が経過すると、批判の対象でしかなかった旧東ドイツを再評価するテレビ番組が相次いで放送された。東独時代の商品や流行などを懐かしむ内容で、それらの番組は高視聴率を得た。

1988年にプロに転向したカタリナ・ビットは、アイスショー「ホリデイ・オン・アイス」に出場したのを皮切りに、米国のデュポン社とCM契約したり、数々のプロ大会やショーに参加するなど商業的な成功を収める。また、女優としてもデビューを果たし、映画『ザ・エージェント』にも出演。98年にはプレイボーイ誌上でヌードを披露し大きな話題を呼んだ。現在も女優やプロスケーターとして活躍する彼女だが、前述したオスタルジー番組のひとつ「DDRショー」の司会も務めた。

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シュタージ

40年の長きにわたり東ドイツ国民を監視し、その反体制的思想・活動を取締っていた東ドイツ国家治安警察(秘密警察)の通称。1990年のドイツ統一後、ビットが「共産主義下の生活は悪いだけではなかった」「秘密警察の人たちも、彼らの仕事をしなければならないという義務があっただけだ」と語ったことが、大きな波紋を呼んだ。「ビットは秘密警察の活動をしていた」という話まで持ち上がった。しかし、閲覧可能になった秘密警察の書類に記録されていたように、むしろビットは幼い頃から監視の対象にされていた。彼女の共産主義体制下での半生は、秘密警察の記録とともに自伝『メダルと恋と秘密警察』の中でつづられている。

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