大松博文 だいまつ・ひろふみ1921年-1978年。香川県出身のバレーボール監督。 ◆鬼の大松1964(昭和39)年の東京オリンピックにおいて、女子バレーボールチームは悲願の金メダルを獲得する。決勝戦では3対0のストレートで強敵ソ連を破っての勝利だった。このために選手たちはすべてを犠牲にして、仕事が終わった後に夕方4時から午前2時までという猛烈な練習を重ねてきた。そんなチームを率いた監督が大松博文である。彼は厳しい熱血指導から「鬼の大松」と呼ばれた。監督は寝る間を惜しんで「生命ぎりぎりのところで闘っている」から金メダル以外にないと宣言し、チームはみごとにそれを実行してみせた。 ◆日紡貝塚日本バレーボール界の名門として数々の実績をあげながら、2000(平成12)年に廃部となったユニチカ・バレーボールチーム。その前身が日紡貝塚。大松博文は1953(昭和28)年に日紡貝塚のバレーボール部監督に就いた。就任後、彼はチームを編成するために約3000人いた女子社員からバレーボールに向きそうな人を選び、鍛えあげた。日紡貝塚バレーボール部は強力なチームとなり、金メダルに輝いた日本代表メンバー12名のうち10名もが日紡貝塚から出ていた。65年に退任するまで大松は、日紡貝塚に175連勝の記録をもたらした。なお、日紡貝塚はその後も記録を258まで延ばした。 ◆東洋の魔女日紡貝塚のバレーボール部は、1961年に約2カ月ヨーロッパ遠征を行った。強豪ソ連チームに6連勝したことを含めて22戦全部で勝利した。この遠征時の日本の強さに驚愕したヨーロッパの新聞は、日本チームのことを「東洋の魔女」と呼んだ。その後金メダルを獲得した東洋の魔女のメンバーは、主将の河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯部サダ、篠崎洋子、松村勝美、佐々木節子、藤本佑子、近藤雅子、渋木綾乃の12名である。 ◆回転レシーブバレーボールは体格がものをいうスポーツであり、背が低く手足の短い日本人にとっては不利だった。体格差をカバーするために、大松博文監督はさまざまな新しいテクニックを考案し、選手たちにその習得を求めた。スパイクの撃ち合いでは欧米人に勝てないと判断。特にディフェンスに力を入れ、ワンハンドレシーブをしたその手を軸に横に一回転し、即座に立ち上がり次のレシーブに備える「回転レシーブ」を開発する。他にも「木の葉落ち(落とし)サーブ」や「時間差攻撃」などが編み出された。 ◆おれについてこい金メダル獲得という偉業を達成した大松博文は1965(昭和40)年に監督を引退する。引退後はまず中国に招かれて1カ月間女子のバレーボールの指導にあたる。68年には参議院選挙に全国区で自民党から立候補し、7位で当選する。1期6年を務めたが次の改選では落選する。その後は全国各地を回ってママさんバレーの指導にあたる。78年に心筋梗塞のため57歳という若さで急逝。『おれについてこい』『なせばなる』といった著書はベストセラーとなり、『おれについてこい』は東宝が映画化。このタイトルは流行語になった。 ◆松平康隆男子バレーボール界にも大松博文と並び称される名将がいる。松平康隆である。彼は、まず東京オリンピックでコーチとして日本代表を指導し、チームに銅メダルをもたらしている。その後、日本代表監督となり、1968年のメキシコ・オリンピックで銀メダル、72年のミュンヘン・オリンピックで金メダルを獲得している。選手の強化にあたっては、逆立ちで縄跳びをするという曲芸的なトレーニングも導入したという逸話も残っている。 ◆ひかり攻撃大松博文が監督引退した後の女子バレーボールは、1968年のメキシコ大会、1972年のミュンヘン大会ではいずれも決勝戦でソ連に敗れ、あと一歩のところで金メダルに届かなかった。打倒ソ連をかかげ、ソ連チームを徹底的に分析した。また「ひかり攻撃」と名付けられた長めのBクイック(セッターの前からやや離れて打つ速攻攻撃)をマスター。その成果が問われた1976年のモントリオール大会ではソ連を3対0のストレートで破り、日本チームは2度目の金メダルの栄冠を手にした。 |
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