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拉致被害者帰国で考える
―― 日本へ還ってくる人、日本から出てゆく人などなどの用語集
 

日本にやってくる人たち、でてゆく人たち等

外国人

本誌1991年版〔国際法用語〕収録。以下、

foreigner。日本の国籍を有しない自然人。1つの外国籍を有する者も、複数の外国籍を有する者も外国人であり、無国籍者も外国人である。日本の国籍と外国の国籍を有する者は、原則として日本人であって、外国人ではないものと取り扱われる。外国人は、警察、課税、裁判などでは、日本人と同じような義務を負うが、兵役、教育の義務は負わない。

外国人の享有する権利は、通商航海条約などの規定がないときは、各国が任意に定めることができる。参政権など公法上の権利を享有することはできないが、私法上は原則として内外人平等主義が適用される。

1985年に国連総会は、「在住する国の国民でない個人の人権に関する宣言」を採択した。これは、外国人の人権宣言として国際的人権保障の一環となるべきもので、多くの市民的社会的権利を認めた。しかし、60年代に外国人労働者を受け入れた西欧諸国で、国内労働力の調整に迫られ、外国人労働者の受け入れを拒否する傾向が強まってきた情況を反映して、労働条件についての権利を規定したものの、労働の権利そのものを認めず、また、裁判を受ける権利と取り扱いの平等、再入国権等は認めなかった。

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北鮮帰還

本誌1959年版収録。以下、

現在、在日朝鮮人は約60万人に上っておりそのうち11万7000人くらいが生活難などで北朝鮮へ帰りたがっている。北鮮系の朝鮮総聯(在日朝鮮人総聯合会)などの関係団体や自民、社会両党の有志らは帰還促進会議をつくって政府に働きかけた結果、昭和34年2月13日、岸内閣は基本的人権と居住地選択の自由という国際理念に基づいて帰還実現をはかることに閣議で了解、直ちにジュネーブの赤十字国際委員会に対し必要な仲介の労をとるよう日赤を通じて依頼する手続きをとった。ところが韓国は、この問題は政治的であり日韓会談で話し合うべき問題だとして真っ向から反対、北鮮側もまた国際赤十字をいれず直接日本との話合いを主張したため一時停滞してしまった。日本側はこの問題に関連し、李ラインを侵したという理由で韓国に抑留されている153人の日本人漁船員の釈放についても国際赤十字に訴えた。

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北朝鮮帰還

本誌1973年版収録。以下、

日本在住の朝鮮人はおよそ60万人、そのうちに10万7000人くらいが生活難などで北朝鮮へ帰りたがっていた。北鮮系の朝鮮総聯(在日朝鮮人総聯合会)などの関係団体や自民、社会両党の有志らは帰還促進会議をつくって政府に働きかけた結果、昭和34年2月13日、岸内閣は基本的人権と居住地選択の自由という国際理念に基づいて帰還実現をはかることに閣議で了解、直ちにジュネーブの赤十字国際委員会に対し必要な仲介の労をとるよう日赤を通じて依頼する手続きをとった。

ところが韓国は、この問題は政治的であり日韓会談で話し合うべき問題だとして真っ向から反対、北鮮側もまた国際赤十字をいれず直接日本との話合いを主張したため一時停滞、結局ジュネーブの両国赤十字の日朝会談の結果、5月に調印された日朝協定(北朝鮮帰還協定)にもとづき、12月14日第1船が出発、以後毎年、協定は延長され、約8万8000人の帰還を実施して、42年11月に打ち切られた。

その後、帰還協定有効期間中に申請を行った帰還未了者約1万7000人の取扱いなどについて、コロンボで日朝両赤十字社の会談が行われたが、従来の方法である暫定措置によることに事実上の合意に達しながら、一般外国人と同様の取扱いにするか、帰還協定の実質延長でやるかについてまとまらず、43年1月に決裂した。同年9月、交渉が再開されたが、44年3月、北朝鮮赤十字が日赤提案を全面的に拒否したため、交渉は中断したが、46年9月帰還は再開された。

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外国人学校制度

1975年版本誌収録。以下、

国内で外国人の経営する学校を規制する制度。従来は、各種学校のひとつとして認められてきたが、北朝鮮系の朝鮮大学校をはじめ20数校は、反日教育を実施しているとの理由から、文部省は認可を与えず、これを規制する法案を第55特別国会に提出しようとした。しかし野党側や文化団体などの反対が強く、見送った。東京都に申請されていた朝鮮大学校については、67年美濃部都知事が認可の意向をもち、私学審議会に諮問し、文部省の認可反対の意向がもたらされたが、43年4月都知事はこれを認可した。

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教育における外国人差別

本誌1999年版収録。以下、

外国人の子どもは、日本の公立学校、民族学校、大使館等に設置された国籍国の公立学校のいずれかに通学する。

日本政府は民族学校は1条校(学校教育法1条に定める小学校、中学校、高等学校)ではないとして日本の公立学校と差別してきたが、最近は差別克服の動きが強まった。スポーツ大会への参加、高体連・高野連への加盟、文化活動での交流の道が開かれつつある。公的な補助金、生徒に対する奨学金や通学定期での差別的な取扱いなども改善された。民族学校卒業生に受験資格を認める大学も増えた。日本の公立学校に通学する在日の子どもも増えてきたが、多くの子どもが迫害を恐れて日本の通名で通学している。教育委員会が人権教育の基本方針を策定したり、学校で差別問題に取り組む例も増えてきたが、まだまだ危険である。また、外国人労働者の子どももいじめ、差別を受けやすい。外国人児童・生徒で日本語の理解に困難があるものが全国で一万人を超えている今日、より徹底した施策が求められている。

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大村収容所

本誌1958年版収録。以下、

長崎県大村市にあり、日本において犯罪をなした韓国人が収容されている。日韓両国間の交渉で韓国側は、釜山に抑留されている日本人漁夫を釈放する条件として、大村収容所の韓国人を日本国内に釈放せよと持ち出した。日本側としては悪質な犯罪者を含む刑余者472人を国内に釈放することに難点があるが抑留漁民を帰国させたいばかりに韓国側の要求を容れることになり、原則的には相互釈放の妥協案が成立した。

〜大村収容所は、入国者収容所大村入国管理センター(法務省入国管理局所管)の通称。

戦後、GHQの指令で、朝鮮からの流入者取締のため1950年に針尾入国者収容所を設置、同年移転し大村に。折からの朝鮮戦争による韓国人難民の送還と、以前からの日本在留韓国人のうちで犯罪を犯した者の強制送還を行った。外務省→出入国管理庁→法務省に。当初から欧米系以外の外国人が対象。欧米系は横浜入国者収容所に。現在収容されているのは、主として不法就労外国人。

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ズ・ダン号事件

本誌1989年版収録。以下、

1987(昭和62)年1月20日に福井県沖に北朝鮮の小型船ズ・ダン号が金満鉄ら11人を乗せて漂着した。日本側の調べで11人が政治亡命を求めているとの意思確認はできたが、どのような方法で、いかなる国に亡命を欲しているかがはっきりしなかった。結局2月8日に11人全員が海上保安庁のYS11型機で台湾に移送され、そこから約20時間でソウルに転送された。

日本の外務省では、最低1〜2週間は台湾に滞在すると見ていたため、台湾と韓国によるこの転送作戦は思いもよらなかったようだ。ところが、北朝鮮と中国は日本に強く反発、とくに中国は海上保安庁機を使って、自分の領土の一部と見なしている台湾にズ・ダン号の11人を短期間にせよ、連れていったことに猛烈に反発し、日中間のシコリの一つとなった。

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留学生対策

本誌1989年版収録。以下、

総務庁は1988(昭和63年)年1月から3月にかけて、日本の外国人留学生受け入れ態勢と帰国子女の教育を対象にした行政観察結果を発表した。これによると、日本への留学生の八割を占める私費留学生の多くが「日本に来て最も困ったこと」に「物価が高い」「円高」「お金が足りない」などを挙げていることがわかった。現在政府は、私費留学生に関し、日本国際教育協会に交付した補助金を通じて「学習奨励費」を支給しているが、支給者は約1万7700人中375人と極めて少数である。このため、総務庁は国費留学生を増やす一方で、私費留学生への「学習奨励費」を拡充する指導を行うよう勧告した。日本の国際化がどれだけ進んでいるかを示すバロメーターとも言うべき留学生の受け入れ改善の必要性は各方面から叫ばれていただけに、総務庁勧告は時宜を得たものと歓迎されている。

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留学生10万名受け入れ計画

本誌1991年版収録。以下、

中曾根元首相は在任中の東南アジア訪問で、日本への留学生を増加させる必要性を痛感するようになり、21世紀初めまでにドイツやフランスなみに10万名の留学生を受け入れる計画を構想して対外的に公約した。しかし、計画に見合った数の留学生をすぐに集めるのはむずかしいので、政府は、まず就学生や技術研修生の受け入れを拡大した。これは、日本に出稼ぎをしたいアジア人やそのブローカーにしてみれば、降ってわいたチャンスであり、法律上は「日本語学校」での日本語の学習、実態は就労目的で入国する者が急増した。結局、「留学生10万名受け入れ計画」は、アジアの人々の出稼ぎが日本で急増する引き金になったといえる。

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難民認定

本誌1989年版収録。以下、

日本において難民条約は1982(昭和57)年1月1日に発効した。この条約への加入に伴い改正、施行された「出入国管理及び難民認定法」に基づき、日本に上陸した外国人を対象に、人種、宗教、政治的意見などを理由に、本国へ戻ると迫害を受ける恐れのある人を「難民」と認める制度。申請は上陸した日から、または難民となった日から60日以内。同法施行前の上陸者については3月1日が締切。認定をうけると、内外人平等の原則から、国民年金加入、生活保護や児童手当の需給、公営住宅の入居などが可能になる。法務省によってなされた難民認定は82年末までの1年間に67である。インドシナ定住難民は政府が政策的に受入れたもので、条約や法律による「難民」とは性格的に違うが、これに準じた処遇を受ける。

このような2通りの難民について、国際的には、レフュジー(refugee)とディスプレースト・パーソン(displaced person)として区別されており、前者は条約上にある“人種、宗教、政治的意見などの理由で”本国に戻ると迫害を受ける人で「難民の地位に関する条約」などで各国に保護義務があるが、後者は経済的理由や本国の政府を嫌って母国を後にした人々である。このため、後者についてインドシナ難民等から難民と呼ぶことについて不満の声がある。

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花嫁斡旋批判

本誌1989年版収録。以下、

農村の嫁不足問題を解決するため、市町村行政当局が仲介してフィリピン花嫁を過疎地に連れてくるケースが増えている。1986(昭和61)年の山形県朝日町、大蔵村を皮切りに、徳島県東祖谷山村、秋田県増田町などにフィリピン花嫁が来て、話題を呼んだ。ところが、習慣の相違、言葉のハンディ、寒さ、老人の世話など花嫁が考えていたことと現実があまりにも違いすぎるため、結婚後2カ月目で逃げ出して帰国した例も出ている。この問題に対し、在日フィリピン大使館当局は「国際見合い結婚は業者が絡んだやり方や現地の見合いの方法におかしいところがある」と批判的である。同大使館1等書記官兼総領事のアンガーラ女史はは88年2月に東京で開かれた結婚問題スペシャリスト講座(日本青年館結婚相談所主催)で「フィリピン女性を、親の面倒を見、子孫を生むための嫁扱いするのは納得できぬ」と政府、自治体に反省を促した。

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フィリピン花嫁

本誌1991年版収録。以下、

農村の嫁不足が指摘されるようになったのは、農村から次・三男や娘たちが都市へ流出した高度経済成長の終りごろ、1975(昭和50)年以降である。町村自治体は、結婚相談員制度をつくったり、都会の女性との集団見合いなどの対策を講じたが、はかばかしい結果は得られなかった。外国人花嫁を集団で迎える先鞭をつけたのは、80年に台湾女性2人を迎えた山形県朝日町で、その後、同県大蔵村、新潟、長野、岩手、福島、群馬、西の方では徳島など各県に広がった。とくに87年から88年にかけて増え、その数は約200人とみられる。台湾、韓国が経済成長するとともに、これらの国々からは減り、フィリピン花嫁の数が多くなった。スリランカ、タイなどからも迎えている。「農業の後継者づくり」が大義名分だが、なぜ花嫁が東南アジアの女性なのか。「従順」「素直」という日本女性が見失った美徳をもっているからだという。女性の主体性や人権を認めるというよりも、家を守り村を存続させるために「嫁をあてがう」発想がみられる。農村の嫁不足と外国人花嫁の問題は、農業政策や日本と東南アジアの経済格差問題など複雑な要素もからまっているが、日本の家族問題であり、女性・男性問題でもある。

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ジャパゆきさん

本誌1991年版収録。以下、

東南アジアから観光ビザで来日し、主に風俗営業で働く出稼ぎ女性。最近は、土木現場で働く男ジャパゆきさんも増えている。悪質な犯罪組織によって人身売買され、暴力を受けて売春を強要されたり、非人道的な扱いを受けている女性も多く、社会問題として注目されはじめている。保守、救援団体が各地につくられ、東京に「HELP」、名古屋に「あるすの会」、大阪、兵庫、和歌山に「バハイ・ニ・マリア」、大阪に「アジアンフレンド」、横浜に「カラバオの会」、徳島に「アジアともしびの会」等があるが、雇主側の妨害などで、活動が難しい実状である。

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中国人看護婦の採用

本誌1999年版収録。以下、

慢性的な日本の看護婦不足に対処するため、看護学校、準看護学校への留学の形で中国から看護婦を呼び寄せて就業させることがある。在学中の「臨床実習」や、卒業後の「お礼奉公」的な研修が流用されている。実習がもっぱらおむつ交換だけという場合などがあり、実体は就労と考えられる。

通常は看護婦本人に月に数万円の手当が支給されるが、低額のうえ、なかには派遣元の中国の医療機関への仕送りを義務付けられている事例もあり、人権問題となる場合もある。日本の看護婦不足には、処遇を抜本的に改善して、職を離れている有資格者を職場に戻す方向をとるべきである。この正しい方策を採るのか、それとも安価な労働力を求めるのか、注目される。

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外国人横綱

1994年版本誌収録。以下、

1993(平成5)年1月に外国人として初めて第64代横綱に昇進したアメリカ人力士曙(本命チャド・ローウェン、ハワイ州出身、東関部屋)をさす。過去にやはりハワイ州出身のアメリカ力士小錦の横綱昇進問題に際して人種差別発言が物議をかもしたが、今回は大関として2場所連覇の実績が認められ、満場一致で承認された。

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イラン人の急増

本誌1994年版収録。以下、

日本は1970年代に多くの国とビザの相互免除協定を結び、出入国手続きを簡易なものにした。この協定は日本側のメリットが大きい(日本からの出国者は入国者の4倍以上)が、日本で就労しようとする者の入国も容易になる。イランとは74(昭和49)年にビザ免除協定を結んだ。

80年代末期から就労目的のイラン人が激増し、91(平成3)年中には3万2000名以上に達した。超過滞在者も多く、一部は東京の代々木公園(リトル・テヘラン)や上野公園に集まり、マスコミの注目を集めた。これに対処するために政府は協定の一時停止措置を採り、代々木公園などで摘発を強めた。イラン政府も報復的に日本人のイラン入国、在留に厳しい態度で臨むようになった。

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イラン人みたいな人

1993年版本誌収録。以下、

私的な話だが、筆者は池袋の住宅街の路地でイラン人の青年に公園の場所を尋ねられ道案内して彼のランチ(コンビニで買った弁当)につきあった。また、実家の建て替えで取り壊しの現場を視察に行くと、工夫はマレーシア人の青年で言葉が通じなかった。家を取り壊すのがマレーシア人とは、先代は考えもしなかったであろう。

筆者の出会った青年たちの場合、彼らの口からカタコトの日本語で、イラン人、マレーシア人と聞いたから、彼らの国籍を認定できるのであって、町で見掛けるそういう人たちのことをわれわれは何となく「イラン人みたいな人」「東南アジア系の人」などと曖昧に解釈している。

新聞の社会面をにぎわす事件記事のなかにも「イラン人、水死」「犯人は東南アジア系の男」といったアジア、中近東の人々が頻繁に登場するようになった。「ケチャップ強盗」と名の付けられた事件−通行人の背にケチャップやクリームを塗りつけ、それに気をとられているうちに相棒が金品を盗む−も、海外から輸入されてきた手口だ。この章で紹介している〈社会風俗〉の現象にも、今後さらに彼らが参与してくるに違いない。

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中国人集団密航

本誌1998年版収録。以下、

1989年に大量の密航者が押し寄せて以来、日本列島の沿岸各地で中国人の密航事件が続いている。96年には545人の密航者が摘発されたが、97年1月−4月間には830人が摘発され、密航手段も船舶だけでなく偽造パスポートを使い航空機によって来日するものも出現した。密航者の出身地は大部分が古くから海外への出稼ぎで知られる福建省であるが、背景には中国内の労働力過剰と労働力不足になやむ高賃金の日本の生産現場という関係がある。中国人の密航組織「蛇頭」と日本国内の暴力団が手を結び、増加傾向にある。新たに「集団密航罪」などが新設され摘発体制が強化されている。

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集団密入国/脱船者

本誌1999年版収録。以下、

中国からの集団密入国が増えている。1980年代末期の就学生ブームやニセ難民騒ぎと同じく、主として福建省からやってきている。93(平成5)年以降、蛇頭が組織した大規模密入国事件が各地で発覚しているが、97年はかつてない急増ぶりで、1860人が摘発された。密入国の成功率は8割といわれ、日本上陸に成功して潜伏中に逮捕される者も相当ある。就業が困難なことから犯罪に走る者も増えている。政府は九七年に入管法を改正して、重罰の集団密航助長罪を新設した。警察も警視庁公安部に外事特別捜査隊を設けて取締りを強化している。最近は、寄港した外国船の船員に認められる特別上陸許可を利用して逃げ出す「脱船者」も増えている。

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不法就労外国人労働者

本誌1990年版本誌収録。以下、

最近におけるわが国の経済の好況から、とくに東南アジアからわが国の雇用を求めて入国する外国人労働者---男女「ジャパゆきさん」に代表される---が増えている。ところが、わが国の入国管理法(「出入国および難民認定法」)は、単純労働を目的とする外国人の入国を認めていない。そこで、名目的には「観光」「研修」「興行」などのビザによって入国し、そのまま単純労働に従事しながら滞留する、いわゆる「不法就労」外国人労働者の増加となっている。その数は、7万人とも15万人とも推定されているが、実数は定かでない。そこで、これを受け入れるかどうか、いわゆる「鎖国論」「開国論」をめぐる論争が官民で展開されてきている。

これに対し、政府は、第114国会に、同法の改正案を提出した。成立には至らなかったが、在留資格を見直して、10項目を増やす一方で「不法就労助長罪」を新設し、雇用主やブローカーに3年以下の懲役または200万円以下の罰金に処することとして、不法就労者排除に厳格な姿勢を示したものである。

目下のさしせまった問題は、この不法就労外国人労働者の現在の悲惨な生活状態である。彼らは、日本人労働者の嫌う、いわゆる「3キ労働」---きつい、汚い、危険---という言葉に代表される労働に従事する。その賃金は日本人労働者の半額から3分の1といわれ、しかも暴力団の介入によるピンはねを受けたり、半強制労働を強いられることも多い。不法就労の発覚をおそれて労働基準監督署に申告することもない。「失業」しても雇用保険の適用はない。もっとも悲惨なのは労働災害を受けることが多いことである。

これに対しては、労災保険法が適用されている。現に適用されたケースは、1987年度71件、88年度40である(89年6月、労働省発表)。

今後、わが国の経済の好況が続くかぎり、ますます多くの外国人労働者の入国は不可避であり、これに対しては、国際的観点から適切な処置がとられなければならない。

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ジャテック(JATEC)

1975年版本誌収録。以下、

Japan Technical Committee to Aid U.S. Anti-War Deserter。アメリカ反戦脱走兵援助日本技術委員会。1968(昭和43)年に組織されたが、前年11月13日、航空母艦イントレピッド号から脱出した4人のアメリカ兵を、日本から脱出させソ連経由で中立国に送り込むことに成功して以来、明るみに出、13人の脱走兵が国外脱出に成功している(ほかに4人逮捕)。アメリカ上院軍事委員会の「脱走兵実態報告」では、世界の7か国に23の脱走兵援助機関があり、そのなかで、最もエネルギッシュな活動で効果をあげているのは「ジャテック」であると報告されている。73年に組織として存在しなくなった。

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抑留日系人補償法

Japanese American Reparation Act。アメリカ合衆国において第2次大戦中、収容所に抑留されていた日系人に対して補償金を払うことを定めた法律。1988年8月に連邦議会を通過、大統領の署名を得て成立した。同法により、1941年から46年の間に居住地から収容所へ移住することを求められた日系人(市民権をもたない1世も含む)に対して、1人2万ドルずつ補償金が支給されることになった。第2次大戦中に日系人を強制収容所に抑留したことについて、82年の最高裁判決は合憲としたが、83年に連邦地裁はこの判決を覆しており、その合憲性には疑念が抱かれている。抑留日系人補償法が成立したことで、この戦時中の措置が違憲の疑いの強いものであることが公的に認められることになったといえよう。なお、98年には中南米から連行されたアメリカ国籍のない日系人約2200人も、補償と謝罪の対象に加えることが決定されている。

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強制連行/強制労働

本誌1994年版収録。以下、

朝鮮半島からの強制連行は、植民地からの労働力移入として1939年の国家総動員法にもとづいて計画的に行われ、朝鮮から日本本土、カラフト、南方諸地域に強制的に移動され戦時生産に協力させられた。現在進行中の補償裁判では、強制連行の国の責任や連行先の企業の責任を問うもの、連行先のカラフトに遺棄されて帰還できなかった責任を問うものなどがある。これにたいし国側は強制連行は、連行が当時の植民地を含む国内法を根拠とすることなどを主張して争っているが、1910年の日韓併合条約の起点となった1905年の日韓保護条約が不法であったとする主張が条約文などの実体にそくした検討の結果として主張されるようになっている。この面では補償問題は、日本の植民地支配の正当性そのものをも含む歴史的外交問題としても発展している。

強制連行は中国人についても行われており、強制連行された約4万人が全国各地の事業場に配置されて、過酷な労働に従事した。大戦末期には秋田県の花岡鉱山の現場で、虐使にたえかねた中国人約800人の一斉蜂起が起こったが、この事件については戦後横浜で開かれたBC級戦犯裁判でとりあげられ、鹿島組の現場責任者らが処罰された。今年に入って終戦の翌年に外務省が作成した「華人労務者就労事情調査報告書」が発見され、労務者の半分以上が強制割当てによって供出されたものであることが明らかとなり、強制性が公文書のレベルでも確認された。

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